嫌われる勇気、再読
2017年の秋から2018年の1月ごろまでぐるぐると渦巻きうごめく感情の中で頭をすっきりさせてくれた1冊。
あのときとは環境が変わった今、再読。
本文ではあなたと書かれている文をわたしに変えて、自分ごととして吸収できるように、備忘録として記します。
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トラウマは存在しない
今ある苦しみは過去が原因なのではなく、自分の中にあるそうしたい、そう考えたいという「目的」があるから。何かしらの目的に沿ってひとは生きている。
「人は変われる」
「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」
性格や気質のことを「ライフスタイル」という言葉で説明する。人生における思考や行動の傾向。
私は「世界」をどうみているのか、「自分」のことをどうみているのか。
「幸せになる勇気」が足りていない
わたしは「わたし」のまま、ただライフスタイルを選び直せばいい。
これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。自分の人生を決めるのは「いま、ここ」に生きるわたしなのだ。
なぜ自分が嫌いなのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?それは他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているから。
対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえない。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、私も他の誰かを傷つけている。
すべての悩みは対人関係の悩みである。個人だけで完結する内面の悩みなどは存在しない。そこにはかならず他者の影が介在している。
自分を苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」からきている。
劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものである。一方の劣等コンプレックスは、劣等感を言い訳に使い始めた状態のこと。「わたしはAだからBできない」
「できない」のではなく「したくない」
前に踏み出すことが怖い、努力をしたくない、遊びや趣味の時間を犠牲にしてまで変わりたくない。ライフスタイルを変える勇気を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽だから。
「優越コンプレックス」
もしも自慢する人がいるもすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない。
不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとする。自らの不幸を武器にし、相手を支配しようとする。
不幸を特別であるための武器にしているかぎり、永遠に不幸を必要とすることになる。
人生は競争ではない、ただ前を向いて歩いていけばいい。
健全な劣等感は、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。
同じではないけれど対等
今の自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある。
他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できない。
「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違うものになる。
他者の期待を満たすために生きているのではない。他者もまたわたしの期待を満たすために生きているのではない。
自分の課題と他者の課題を分離する必要がある。他者の課題には踏み込まない。
課題を見つける方法は「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」を考えること。
自分を変えることができるのは、自分しかいない。
自分の信じる最善の道を選ぶこと。その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題である。
自由とは、他者から嫌われること。嫌われることを怖れないこと。
他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。
自己への執着を他者への関心に切り替えていく。
この人はわたしに何を与えてくれるのかではなくわたしはこの人に何を与えられるかを考えること。
共同体への所属感が持てないときもっと別の共同体があること、もっと大きな共同体があること気づいてほしい。
他者を評価しない。
幸福とは貢献感のこと。
承認欲求から得られた貢献感には、自由がない。
共同体感覚があれば、承認欲求は消える。
普通であることの勇気。
「いま、ここ」にスポットライトをあてることは、今できることを真剣かつ丁寧にやっていくこと。
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同じ文を読んで思い浮かべる状況や人が変わっていた。あの頃悩んでいたことも少し思い出したけど、そのときに選択すべきことをして、今があるのだなぁ。勇気を持って、覚悟を持って。ここにいることの安心感を持てる共同体があることに感謝して、自分ができることをたんたんと、丁寧に過ごしていこうと思います。
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